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プロが解説!東京湾岸の埋立 プロが解説!東京湾岸の埋立

東京湾岸は江戸時代から埋め立てられ、沖合いに向かって拡大し続けてきました。中央区も江戸初期から高度成長期にかけて、埋め立てが実施されています。

東京湾岸の埋立 東京湾岸の埋立

中世
中世のころ、現在の中央区・江東区の大半は海で、日比谷周辺も日比谷入江と呼ばれる海でした。日比谷という地名は、海苔を養殖させるときに使う木の枝の「ヒビ」に由来しています。
中世~江戸初期
徳川家康は、江戸に入るとすぐに日比谷入江を埋め立てました。その後も、神田山を切り崩し、日本橋浜町から新橋までの埋立を行いました。江東方面の埋立は、慶長元年(1596)から始まりました。
江戸初期~江戸末期
寛永年間(1624~1644)以降、隅田川河口の小島が徐々に埋め立てられ、越中島地域が形成されました。火災の瓦礫を処分するため、現在の江東区東陽あたりの海面を埋め立てて、新たに土地が開発されました。幕末には品川台場が建設されました。
江戸末期~明治末期
東京港の水深を確保するため、浚渫工事が行われました。この工事で発生した土砂によって、佃島、月島、勝どきが埋め立てられました。
明治末期~戦後
隅田川河口の航路浚渫による土砂で、月島、芝海岸通り、芝浦一帯の埋立が行われました。明治33年(1900)4月から、ごみの処理を東京市が統一して行うことになり、江東区塩浜、枝川が埋立地となりました。大正12年(1923)の関東大震災の瓦礫処理で、江東区豊洲などが埋め立てられました。 京浜運河の開削に伴う羽田空港の先の埋立は、昭和14年(1939)に始まりましたが、第二次世界大戦で中断しました。戦後、GHQが東京港の埠頭全域および臨港地域の大部分を接収したため、埋立事業も中断されました。
高度経済成長期
東京港修築工事によって、豊洲埠頭と品川埠頭が造成され、晴海埠頭が拡張されました。東京都の人口、産業などの集中化に伴う住宅、環境、廃棄物処理に対処するため、江東区辰巳、東雲、有明、台場の埋立が行われました。さらに、東京港の物流機能を拡張させるため、大井コンテナ埠頭・青海コンテナ埠頭が造成されました。ごみ処分場として、江東区潮見、夢の島が造成されました。
高度成長期後~昭和末期
昭和46年(1971)以降は、江東区若洲、中央防波堤内側、羽田沖、中央防波堤外側がごみ処理場として埋め立てられました。都市部から発生する土砂類や東京港の浚渫工事から発生する土砂を埋立地の埋立材や盛土材として活用しました。
平成元年(1989)~現在
羽田沖埋立地の西側が埋め立てられ、国際空港として利用されました。さらに中央防波堤外側廃棄物処理場の東側が埋め立てられました。新海面処分場が最後のごみ処理場となっています。

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